あの番組に関わった人間たちが、その後どうなったか。一人ずつ記録しておく。忘れられるべきじゃない。
山本修三(プロデューサー)
番組の「表」の責任者だった。現場をまとめて、きらら放送との交渉をして、予算を管理した。真面目な男だった。「子供たちのための番組を作りたい」と本気で言う人間だった。
1996年の秋、地下施設の存在に気づいた。山本さんはきらら放送に直接乗り込んで、番組の即時中止を求めた。その翌週から出勤しなくなった。
数ヶ月後、家族に手紙が届いた。山本さんの筆跡で「心配するな、元気にしている」と書かれていた。家族は捜索願を取り下げた。
…本当に本人が書いたのかどうか、俺にはわからない。ただ、あの手紙の消印は、ゆめスタジオの所在地と同じ世田谷区だった。
田中恵子(脚本家)
初回から最終回まで、全話の脚本を担当した人だ。だが彼女は途中から気づいていた。自分が書いた台本と、実際に放送された内容が違う。セリフが変えられている。知らないコーナーが追加されている。「(※別途指示)」という、自分が書いた覚えのない一行が台本に挟まれている。
1995年、田中さんは上に抗議した。返答は「演出上の判断だ」。それ以上は何も教えてもらえなかった。翌年、田中さんは辞めた。スタッフの中で唯一、自分の意思で、無事に抜けた人間だ。
辞める時、彼女はオリジナルの脚本のコピーを全て持ち出していた。彼女はあの会社を信用していなかった。その判断が正しかった。あの脚本が、俺の調査の最も重要な証拠になった。
松本幸男(技術スタッフ)
アニマトロニクスのメンテナンスを担当していた。毎朝、4体の関節を点検して、モーターを調整して、表面を磨いていた。あの子たちに一番近い場所にいた人間だ。
松本は知っていた。1995年の秋以降、4体の動きが変わったことに最初に気づいたのは松本だった。操演していないのに指が動く。メンテナンス中に首が回る。ある朝、ぽたまるの内部スピーカーから、泣き声のような音が漏れていたと、後に語っている。
何年も黙っていた。俺は松本を責められない。あの状況で声を上げたら、山本さんと同じ目に遭っていただろう。
調査チームが接触したとき、松本はたった一言だけ言った。
「1996年以降、あのスタジオで起きていたことは、番組制作とは何の関係もなかった」
中村由紀(音楽担当)
テーマ曲とコーナー音楽を全曲作曲した。明るくて耳に残るメロディばかりだった。本物の才能のある人だった。
中村さんは、自分の曲が放送で流れる様子を毎週チェックしていた。最初の数年は問題なかった。だが1995年の後半から、何かがおかしくなった。「私が書いた曲が、放送を通して戻ってきたとき、別の曲に聞こえた」と彼女は言った。音程は同じ。テンポも同じ。でも何かが違う。何かが足されている。
彼女は録画した放送を何度も聴き直した。そして自分の曲のBGMの下に、もう一つ別の音声が重畳されていることに気づいた。聴こえるか聴こえないかの境目の周波数で。
番組が終わった後、中村さんは音楽を辞めた。理由は語らなかった。
吉田一郎(セット・施設設計)
俺のことだ。スタジオのセットと、地下施設のインフラを設計した。最初は何も知らなかった。途中で全てを知った。そして何もできなかった。
俺は文書のコピーを持っていた。それがあいつに対する唯一の盾だった。そして…俺はあかねの父親だった。
あかねを人質にされていた。協力し続ける限り、あかねのデータは保持される。逆らえば、消される。30年間、そうやって繋がれていた。生きていたのか、飼われていたのか、自分でも分からない。